Sandel, Justice 1〜3章

Sandel,M.J, 2010, Justice, Penguin Books.を読む。日本語ではこれ→「これからの「正義」の話をしよう」

久しぶりの更新です。学会報告、カス等々順次たまったものをうpしていきます。とりあえず今日はサンデル。サンデルブームに乗っかろうキャンペーン!というわけではないけども、今学期はなにかとサンデルとご縁がありますな〜。レビューなんかはアマゾンその他に腐るほどあるので、ざっと紹介と感想をば。


▼紹介
1章は、正義に関して3つのアプローチ(福利、自由、美徳)があってね、トロリー問題があってね、という倫理学の初歩のお話し。2章は、功利主義の話。ベンサム、ミル。3章は、リバタリアニズムの話。ノージック、ウィルトチェンバレン


▼感想
やっぱり話の流れが上手いやね〜。たとえ話の提示が非常に秀逸。倫理学の話って、トロリー問題とか見ればわかるように非現実的で関心が持たれにくい。そこで、現実にあったノンフィクションをもってくると、読んでる側としてもはっとする。そこ大事。見習わなければ。

あと、リバタリアニズムが最初の方で1章分出てくるってのもなかなかアメリカらしいよね。日本だとやっぱカントの義務論の話がまず出てくるところでしょーね。まぁ、あとでカントも出てくるみけど。倫理学の3大アプローチの内の1つが自由=リバタリアニズムと書いたら、カント学者には怒られそうだな。

基本的に一般書(一般読者への紹介)なので、内容的に批判するべきところはほとんどないわけだけど、4つほど。
1.伝統とか慣習を固定的に捉えすぎ。The case without perfectionでもそうだけど。たとえば、今回は2章で、「独身女性が男と夜をともにするのは非道徳的」=「伝統的、慣習的」としてるけど、そんなに伝統的とも言えないだろう。歴史家に怒られそう。今後明確な記述が見当たればいいなぁ。
2.リバタリアニズムを不当に貶めている。そこは藁人形論法かなぁ。3章で、リバタリアンは、自殺幇助、売春、臓器売買等々を認めるはず。果たしてそれでいいんですか?と問うてるわけだけど、そもそもリバタリアンがこれらを認めるかどうかは必ずしも自明ではない。認めるリバタリアンは確かに多いが、リバタリアンも一枚岩ではないからね。例えば、森村進さんなんかは、生命を奪うような臓器売買は認めない。当然自殺幇助も認めないだろう。笠井潔さんなんかも自己奴隷化契約を認めない。おそらく自殺幇助も認めないだろう。ノージック、スタイナーなんかは自己奴隷化契約に肯定的なので、自殺幇助も認めるかもしれない。ナーヴソンなんかは自殺幇助を認める。まとめると、リバタリアンも一枚岩ではないので、もうちょっと丁寧に書いて欲しかったな。
3.強欲=不当としているが、そうでもないだろう。
4.ハリケーンの後、賃上げ禁止が社会全体の効用を増すというところがよくわからんかった。




これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

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Justice: What's the Right Thing to Do?

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