サンデル『完全な人間を目指さなくてもよい理由』 その1

サンデル(2010)(林芳紀他訳)『完全な人間を目指さなくてもよい理由』ナカニシヤ出版
を授業で読んでいるので、ちょっとずつ感想を書いていく。

アメリカで聾の親が聾の子供を作ろうとする話が物議を醸した話から入って、身長・記憶力・性選択・筋力増強に関するエンハンスメントのさわり。安全性・公平性・パーソンなど生命倫理学の常套的な困難を仮にクリアしたとしても、これらに対して忌避感を感じるとすれば、それはなぜだろうか?


▼邦題
この邦題はどうなんでしょうかね〜。原題は、The case against perfection。2点だけ気になった。その1。Perfectionを「完全な人間」と言ってしまうのは、ややミスリーティングだと思う。講義中に某氏が言ってたけど、客観的な能力を表す「完全性」であって、評価用語としての「完全な」ではないはず。つまり、このパーフェクションは、例えば、筋肉モリモリのマッチョマンになることとか、IQがどえらい天才になるとか、超絶イケメンになることとか、あくまでそれ自体は客観的な能力を表す完全性だと思う。それに対して、完全な人間と言ってしまうと、少なくとも私は、聖人君子的な者を第1に想像してしまうんですよね。慈愛にあふれた善い人間の最高の形が完全な人間であるというような。邦題だと、善人にならなくてもよいっていうような誤解を与えてしまいかねない。少なくともそういう意味も含まれてしまうとは思う。確かに、「完全な人間」は、何についても完璧にこなす人という意味もあって、その場合当然上で触れた能力としての完全性も含まれるとは思うが。両者の違いを別な言い方にすれば、サンデルなんかは「(能力的には)完全な人間」を目指さないことこそが「(人格的に)完全な人間」に近づく方法であるって言いたいんじゃないかなぁなんて思う。

その2。で、もう1点は、againstを「目指さなくてもよい」としているところ。(英語に明るくないから間違っていたら申し訳ないんですが、)againstは「目指すべきではない」というような意味なんじゃないんかな。「目指さなくてもよい」としてしまうと、じゃあ、「目指してもいい」のかい?となると思うんですが、サンデルは「いやいや、やっぱり目指すべきじゃないんだよ」と言うような気がするんだよね。つまり、許可canの話をしたいんじゃなくて、当為shouldの話をしたいんじゃないかな。

私だったら、素直に『完全性に対する反論』ってしたいところ。まぁ、邦題については最後まで読み切ってもう1回考えよう。



▼社会に対する義務
某氏は社会に対する義務(聾の子供を生めば社会に負担(少なくとも金銭的負担)を強いるから)を考えると、聾の子供を生むべきではないというようなことを言っていた。それに対して、じゃあ、金持ちなら生んでも良いのか?、あるいは、聾ではなくて、ガンになる可能性が高い子供を生むべきではないのか?と疑問を呈されていた。その疑問ももっともで、検討しなくちゃいけないと思う。

ただ、私が気になるのは、別のところにある。社会に対する義務がどっから出てくるのか。例えば、我々の社会、現代日本においては、障害者に対する援助は間違いなくある。聾の子供を生めば、社会は援助するだろう。そのことに対して苦々しく思う人もいるはず。そこで、だ。勘違いしてはならないのは、解決の方法は2つあるっていうこと。1つは、個人を変えること。即ち、聾の子供を(少なくとも意図的には)生むな、ということ。確かに、こういう方法も考えられる。冒頭の某氏はこういうのだろう。でも、もう1つ方法があるはず。それは、社会の方を変えるということ。彼らは、(少なくとも意図的に)聾を生んだ家庭に対しては援助をしないという社会制度を(少なくとも理屈の上では)作り出すことができる。(もちろん、この2つの方法は、あくまで苦々しく思った場合の話であって、むしろもっと援助するべきだという人も多くいるとは思う。)

前者は、社会の存在を第一義的に認め、個人は社会に合わせて生きるべきだと言う。”我々(健常者)”の負担を減らすために、”あなた方(聾)”は我慢するべきだと言う。多数派は、多数派の利益を維持するために、少数派の(消極的)自由を制限しようとする。後者は、個人の存在を第一義的に認め、社会は個人に合わせて作られるべきだと言う。”我々(健常者)”は”あなた方(聾)”の選択を尊重すると言う。ただし、その為の援助は我々は負担したくないと言う。多数派は、多数派の行動を多数派の利益を維持するために、多数派自身の行動を変えるのであって、少数派の(消極的)自由を制限するわけではない。

色々論点がある。社会の存在と個人の存在はどちらが優先されるべきか。後者の策では、「消極的自由」(干渉されないという自由)は尊重されているが「積極的自由」(したいことができるという自由)は尊重されていない。それは選択の自由を尊重したと言えるのか。これは、自己所有権の議論でも意味があるところで、身体に対する完全な所有権(消極的自由、干渉されない自由)があったとしても、外界物に対して一切の権利をもたないとしたら、我々はほとんど何もできない。例えば、食物を食べることも、歩くことも外界物に対する使用権を前提にしている。外界物に依らずにできるのは、ただ死にいくことだけ。つまり、消極的自由のみを確保するだけでは、何もできない。それは自由か。リバタリアンはこれに答えないといけない。立岩真也さんと、Eric Mackさんを読もう。