カス『治療を超えて』 その1

第3章 優れたパフォーマンス を読む。これも講義で扱っているのでちょっとずつ感想を書いていく。

50頁くらい分量があるけど、内容としては、一言で言える程度のもの。(ある種のバイオテクノロジーのような)人間性や尊厳を冒すようなことはしないようにしようぜ。保守的な、ある意味では非常に常識的な立場を、それなりに異論反論も踏まえて詳しく論じているところは良い。


でも、ひでぇ話だったなぁ。単なる常識の表明なら議論する必要もないわけで。以下、気になった点を。


▼1.人間性や尊厳に関する明確な定義がなされていない。   それっぽい記述だと「積極的で自覚的で自発的な活動主体としての我々の十全な開花(p.151)」とか、「一体となった心と精神と身体の働きを目に見える美しい活動として表現する人間(p.155)」とかあるけど、とてもじゃないが内容がよくわからんやろ。

この手の議論でいつも疑問に思うのは、人間性、尊厳、卓越性等々に関して、(1)定義がわからんこと(上記)と、(2)なぜポジティブな評価を与えるのかがわからんこと。人間性って必ずしも崇高や神聖という性質を備えている場合に使うわけではなくね?人間ってそんな綺麗なもんなんか?ダイエット中にケーキを食べてしまった人間を評して、人間的だねと言ったりするだろ。自堕落な人間も人間的だと思ったりもする。169頁以降でそうした反論も少し扱ってはいるが、とても説得的とは思えない。尊厳という言葉を使えば、まぁ、ポジティブな意味づけを与えても良いと思うが、やっぱり定義がよくわからない。エンハンスメントによってマッチョマンになることは、尊厳を失わせる行為なのか、あるいは、依然として人間である限り尊厳を備え続けるのか?後者であるとすれば、エンハンスメントを規制する根拠にはならない。前者だとすれば、マッチョマンになる人には尊厳がないことになる。シュワちゃんに向かって「あんた尊厳ないよ」とかとでも言うつもりなのだろうか。何様のつもりなのだろうか。尊厳について最も洗練された議論をしているのは誰なんだろう?誰か知ってたら教えてください。

まぁ、他の章で定義がされているかもしれないし、言葉の問題であって、それほど重要ではないかもしれない。保留にしておこう。


▼2.事実と規範を混同させている。   次に問題なのは、意図的なのかどうかは知らないが、「である」を「べき、よい、ねばならない」と混同させているところがある。「そのような〔治療とエンハンスメントの〕境界を設定することによって我われが守ろうとするもの、あるいは守らなければならないものは何なのだろうか(p.142)」
線引きをすることで我々は何かAを守ろうとしており、その守ろうとしているものAは何だろうか。ふむふむ、そこまではわかる。何かを守ろうという目的がなければ、線引きなんてする必要ないもんね(厳密に言えば、「守ろう」としているとは限らないが)。うん。問題はその次。(線引きをすることによって我々は何かBを守らなければならないのであり、その)守らなければならないものBは何だろうか。えっ!?これはおかしくね?
例を変えてみる。我々がパンよりご飯を好むのは、我々が何かBを守らなければならないからである・・・。そんなバカな。我々が賞味期限という線引きを設定するのは、我々が何かBを守らなければならないからである・・・。これはまぁ理解できる。というのも、「賞味期限の設定は健康維持に必要である」⇒「健康は守らなければならない」⇒「賞味期限の設定するのは、我々が健康(B)を守らなければならないからである」という論証であって、暗黙の前提となっている真ん中の前提が一般的には正しいからである。

もちろん、論理学的に言えば、「あるいは」以降の部分は意味をなさないとしても文章全体の真偽が変わるわけではない(ex.ドラえもんは、ロボットであるか、あるいは食べ物である)。が、まぁ、一般的な文章の記述としてはミスリーディングだよね。


174頁でも、「尊厳を持つことは人間的である」から「尊厳を持つ方がよい」を導いている。ここでも「人間的」の曖昧さにつけ込んでいる。この路線で論証するためには、「尊厳は人間的である」⇒「人間的であることは良い」⇒「尊厳が良い」とすべきであって、真ん中の論証が抜けている。人間性・尊厳というブラックボックスから都合の良い主張ばっか引っ張り出して来やがって。人間性を定義しないつけがここにも回ってきている。むしろ僕が知りたい&彼らが彼らの主張に説得力を持たせるために示すべきなのは、その真ん中の部分の論証だろう。

まぁ、この辺りは翻訳の問題ということもありえるかもしれない。原著を手に入れてから考えることとする。保留。


▼3.批判者に対する説得力が皆無である。社会的な規範たりえない。   ここが最も問題だろう。確かに尊厳(←カスらの言う、エンハンスメントを規制しうる意味での尊厳)をもって生きたいという人はカスらの主張に賛同するだろうし、実際にそういう人も多いだろう。僕も当面はマッチョマンになりたいとは思っていないし、尊厳をもった人生を生きたいさね、そりゃあね。しかし、そうではない人もたくさんいるだろう。尊厳?知ったこっちゃない。俺はマッチョになることに命賭けてるんだ。邪魔をするな。
実際、カスらも「人間の活動と人間の尊厳についてのはなはだ哲学的な捉え方が必ずしもすべての人に対して説得力を持つわけではないということは十分に理解できることである(p.179)」と述べている。だが、批判者に対して(さえも)説得力を持たせようという目的を放棄してしまったとしたら、その主張にいったい何の意義があるのか?彼らの目的は何なのか。単に意見を決めかねている人々の浮動票を手に入れたいだけなのか。大統領生命倫理評議会報告書たるものが?

まぁ、はじめに辺りを読めば、目的については書いてあるかもしれない。保留にしておこう。

共同体主義保守主義とはやっぱりそりが合わないね・・(´・ω・`)。