ゴッホの絵の所有者なんですけど、燃やしていいですかぁ?

この問いに対して、多くの人は「燃やしていい」と答えるだろうとした上で、続けてこのように述べられている。

たしかにそのゴッホの絵は彼の所有物である。だから国家に寄付するのも、さらに高く売るのも、やすく売るのも彼の自由である。しかし、ゴッホの絵の作品としての価値は「公共財」(public goods)である。 加藤尚武『合意形成とルールの倫理学』 p.191

狭義の自己所有権(狭義SO)を考える上で、所有権の定義を明確にしないといけない。副ボスからそんな指摘を受ける。所有権に処分権は必然的に含まれるのか。それとも、処分権のない所有権も成立するのか。これはこれで考え出したら手に負えなくなりそうだなぁ。
所有権に関する哲学的議論で必ず取り上げられるオノレはリベラルな所有権の要素を11挙げていて、その内に当然所有権も含まれる。ただし、ややこしいかつ重要なのは、全ての要素が成立していなくても所有権は成立していると言うのよね〜。家族的類似性みたいな。だから、オノレ的には、処分権がなくても他の多くの要素を満たしていれば、それは所有権だと言えるはず。狭義SO限定すると、コーエンも森村も処分権のところは取り立てて説明しているわけではないしな。

処分権ではないけど、所有権を持ちながら、ある種の使用が制限されることは往々にしてある。景観保護のため、高層マンションを禁止する。まことちゃんハウスも似たような例。こういうのはどういう正当化の論理なんだろうか。

こういう使用制限を認めてしまっていいのんかなぁ。極論を言えば(あくまで極論ですよ!)、この制限を認める方向性を推し進めると、「ブサイクは整形しろ」ってことになると思うのよね。まさに容姿的な景観保護の名の下で。もちろん、生来性とか忌避感の差とか色々ハードルはあるけれども。やっぱり外的選好をもとに何かを禁止してはならんと思う。話は変わりますが、この間帰宅中、ゲイがチューしてるのを見たんですよ。そらぁビックリですよ。別に否定的な意味ではなく、単にそういうのを見る機会がないという意味でね。私個人は同性愛とか全然構わないけど、こういうのも公共性ゆえに不快感を感じる人が多ければ禁止されてしかるべき?