加藤「身体を所有しない奴隷」  奴隷でもなく自己所有者でもなく

加藤秀一(2001)「身体を所有しない奴隷―身体への自己決定権の擁護―」『思想』922を読む。

自己身体にかんする所有権は、私がこの私としての存在を享受するための条件をなす・・・しかし他方、所有(権)という概念の本質に含まれる譲渡や移転の可能性は、<私の身体>が<私のモノ>でなくなるという事態を潜在的に想定している。 p.123


このようなディレンマを回避しつつ、なお<私の身体>という水準を確保する方法は一つしかない。すなわち、譲渡や移転の可能性に先立たれた所有権という概念によってではなく、それを端的に認めることである。 p.124


とてもおもしろい論文だった。社会学者って哲学者以上に哲学者っぽいこと考えるなぁ。立岩真也然り。この2人だけなのか、そうじゃないのか。立岩さんより文章表現が読みやすい。他の著作も読む価値は大いにありそう。

内容について。奴隷であること(強制的奴隷)を回避するためには、自己所有権を言う必要がある。その一方で、自己所有権を言うことは、奴隷となる道(自己奴隷化契約)を開くことになる。ここにジレンマがある。

2通りの解決の仕方がある。1つは、あくまで自己所有権に執着する。(一部の)リバタリアン的な回答。それは見せかけのジレンマであって、ジレンマではない。自己所有者として、自由意思でもって自ら奴隷になるのならばそれは一向に構わない。ノージック的な見方。  あるいは、自己所有権を支持しながら、別の論拠で自己奴隷化を否定する考え方もありえる。森村進的な見方。  あるいは、自己所有権という概念自体が自己奴隷化を容認し得ないという笠井潔的な見方(これは無理があると思うが)。

もう1つは、加藤さんの言うように、自己所有権を諦めて、別の論拠から強制的奴隷回避を望む。例えば、加藤さんは(従来の自己決定権とは違う水準の)自己決定権という論拠を挙げる。ただ、やっぱり基礎づけが難しいところよね。「端的に認める」なんて超弩級の難題をどう克服するのか。「俺は認めない」というリバタリアンに対していったい何を言い得るのか、って言うのがね。とても常識的な大人な考え方だとは思うのだけど。