加藤尚武先生曰く
自分に見返りが絶対にないと分かっても人助けをするのは、相互性よりももう一段上の倫理である。英語ではスーパーエロゲーション(supererogation 責務を超える善行)という。(p.43)
臓器提供の善意は、(・・・)責務を超えた善行である。この倫理こそが未来社会に通じるものなのである。(p.46)
また私は、「他人の臓器を奪っても生き延びたいという浅ましい人間を助ける必要がない」という意見の持ち主に対し、臓器の提供を自発的に拒絶する「義務を超える徳」(supererogation)を評価するがゆえに、移植を受ける権利を認めるべきだと言いたい。(p.50)
「一段上の倫理」、「未来社会に通じる」という表現などをみると、加藤先生はスーパーエロゲーションを随分肯定的に評価しているみたい。そのことは私も賛成。
ただ、気になるのは3番目の文章。まず、整理しよう。1.臓器提供は悪行であって、臓器提供を行わないこと(差し控えと呼ぼう)こそが善行であると主張する人がいる。まぁ、普通はそうは考えないけど、世の中にはこういう人がいることにはいる。例えば、小松美彦さんであったり、田中智彦さんだったり、『私は臓器を提供しない』という本もあることだし(彼らが臓器提供=悪行だと明言しているかは調べていないが)。ここまではわかる。 2.ただこれだけではスーエロとは言えない。スーエロ=善行+非義務的だからである。つまり、臓器提供の差し控えが非義務的である必要がある=臓器提供の差し控えが義務であってはならない=臓器提供は認められるべきであるというふうになる。
ふむ。ここまではわかる。スーエロは尊い⇒義務はできるだけ低く設定するべきである⇒臓器提供を認めるべきだ、という論証である。(リバタリアンの本意はどうであれ、)リバタリアンが義務を低く設定するのと親和的であって、私も基本的には賛成である。
ただ、この論証だと、同意殺人、自殺幇助、自発的安楽死、妊娠中絶なんかももっと大幅に認められるべきだということになりかねない。例えば、加藤さんの主張をパラフレーズすると、「行為X(臓器提供)を禁止すべきだという意見の持ち主に対し、X(臓器提供)を拒絶するスーパーエロゲーションを評価するがゆえに、Xを認めるべきだと言いたい」となる。Xに同意殺人を当てはめると、「同意殺人は禁止すべきだという意見の持ち主に対し、同意殺人を拒絶するスーパーエロゲーションを評価するがゆえに、同意殺人を認めるべきだと言いたい」となる。リバタリアンであれば、それは望むところだということになろうが、一般的にはなかなか受け入れ難い結論ではあるような気がする。
スーパーエロゲーションが倫理的に高い価値を有していると考えるならば、こういう主張になるはず。純粋に倫理学的な観点からユートピアを夢想するとすれば、義務が存在しない世界が最善である。納税義務は存在せず、全ては寄付というスーエロによって賄われる。殺人は禁止されていないが、行われない。この路線を採らないのであれば、スーエロの価値を下げる路線が考えられる。
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