強者であるがための義務は存在する?

ノブレス・オブリージュってなものをどう考えればよいだろうか?

▼1.あなたが医者であったとする。目の前に病に苦しむ人がいるとする。あなたはそれを治すことができるとしよう。

さて、あなたにとって病人の治療は(道徳的)義務なのだろうか。義務ではない善行=スーパーエロゲーションなのだろうか。どちらだろうか?(あるいは一応可能性としては、善行ですらないと言うこともできるが)。おそらく、義務と捉える人も多いだろう。

▼2.あなたが医者でないとする。目の前に病に苦しむ人がいるとする。あなたはそれを治す能力を持ち合わせていない。

さて、あなたにとって病人の治療は義務なのだろうか。おそらく義務ではないだろう。「べし」は「できる」を含意すると倫理学界隈ではよく言われる。つまり、できないものは義務ではありえない。例えば、虫を踏みつぶさないために空を飛べなんて言われても、そんなことできるわけがない。


病人の治療に関して、1.医者にとっての義務として捉え、2.一般人にとっての非義務として捉えるとするならば、それはそれでおかしい気がする。なぜ医者になることで、義務が増すのか。医者にとってみればたまったもんじゃないだろう。苦労して技術を身につけた挙げ句、「あんたは義務を果たすべきなんだ。だから、馬車馬のように働かなきゃならんで」と一般人から言われたら、そいつをぶん殴りたくなるのは間違いない。

病人の治療に関して、1.医者にとっても、2.一般人にとっても、非義務として捉えるとするならば、それはそれで一貫している。リバタリアンはきっとこういうふうに考えるだろう。が、多くの人々の直観に反する気がしないでもない。つまり、人を救える能力を持っていながら、それを使わないのは病人を殺しているに等しい。倫理学の界隈では、死ぬにまかせることと、殺すことには道徳的相違がないという立場も根強い。この立場を採れば、医者の治療放棄は端的に殺人であり、やはり治療は義務となってしまう。

このような寓話は何も医者―病人関係だけに当てはまるものではない。強者と弱者がいるところ、必ず生じる問題である。経済的強者と弱者、日本人と発展途上国の人々。どうしたものか。