生まれながらの不平等

しかし、彼らは次のような別のたとえ話にどのように反応するだろうか。そこでは、あらゆる人々が眼窩が空のままで生まれてくるのだが、ほとんどないし過半数は、眼球樹の下を通り過ぎるときに眼球が眼窩に落ちてくることになり、一方、その他の少数派はそうではない。眼球を獲得する偶然性が示唆しているのは、くじによって目の見えない人に眼球を一つ再分配するのはそれほど悪いことではないということである。自己所有権の信奉者は、眼球樹の運と遺伝的な抽選の間には重要な相違があると確信しつづけることができるだろうか。 コーエン(2005)『自己所有権・自由・平等』(松井他訳)p.346

要するに、目が見えるように生まれてくるのは単なるラッキーだから、分配するのも悪くないよねとコーエンは言う。

確かに目が見えるように生まれてくるかどうかってのは、運であって、偶然であって、道徳的観点からは恣意的なものではある。幸いにして(?)、眼球のような身体のパーツは、分配することが比較的容易である。現在でも、危険性やコストを度外視して技術的な面に限れば、少なくとも角膜に関しては分配=移植することが可能である。腎臓や肝臓なんかはいわずもがな。しかし、まぁ、学術的な話はおいておくとすると、現実の政策としてそういった臓器の分配制度は聞いたことがない。ありえるとすれば、死後ないし脳死後の臓器を強制的に分配するくらいか。これも少なくとも日本では聞かない気がする。

では、才能は分配できるだろうか。私なんかはサッカー監督に憧れていまして、モウリーニョみたいな才能があったらいいなぁと思うんですが、それは難しい。というか無理だろう。才能は臓器ほど局在するものじゃないだろうから。短距離走の才能ならまだしも、監督の才能なんていろんな要素がありすぎる。

これに対してコーエンはなんて言うんだろうか。みんなクローンにしちゃって、あくまで元々の才能の平等を徹底する?―それはないか。職業を均一化する?―それもないかなぁ。平等化できるもの(臓器)だけ平等化して、他(才能)は諦める?―それだと結局不平等が残る。等々考えると、結局は才能によって得られた収入を分配せよとなるのが現実的か。でも、コーエンはもともと収入の平等化という戦略に失敗したから、自己所有権を批判する戦略を採ったはず。(この辺議論の把握が曖昧ですが)とすると、議論は逆戻りしてしまうから、この回答も採れない。

どう考えるのが平等主義者の最も洗練された戦略なのか。リバタリアンはどうやってそれを叩き潰すのか。