尊厳の押し売り?

人間は単に個として孤立的に存在するのではなく社会的存在であることからすれば、やはり生命処分については内在的制限があると思われ、「殺害されることを請求する権利」や「自殺の権利」としての自己決定権を承認することはできない。


甲斐克典(2004)「刑事法学の視点から――人体・ヒト組織・ヒト由来物質の利用と刑事規制をめぐる序論的考察」『北大法学論集』p.158

最近、人体の尊厳について調べている。そうすると、いろいろ考えることがある↓

一方に、生命や身体に尊厳を見出したい人々がいる。むしろ多数派だろう。私だっておおかたそれは認めたいと思う。しかし、他方に、そうでない人々がいるはずである。尊厳なんてない認めたつもりはないし、社会的存在であるつもりもない。彼らの考えを幼稚だと嘲笑し無視するとしたら、今度はその嘲笑する側が幼稚だという誹りを免れ得ないのではないだろうか。


話を変えよう。なぜ人を殺してはいけないのか、と問われたらどう答えるべきか。普通は、あなたも殺されたくないでしょう?だから殺してはいけないのよ、と答える。そこに見られるのは、契約説的な、相互性の倫理の考え方であり、その考え方で多くの人は納得する。それはある程度の直観が共有されているからである。

しかし、中には納得しない人もいる。私は殺されても構わないと考えている人である。彼に対して、多数派は何を言い得るだろうか。おそらく説得は不可能であろう。ここに至っては直観は無力である。直観主義は直観同士の対立を解消できない。かといって、彼の意見を封殺するのは傲慢さを感じる。

カント的に互いが互いを尊重し合うのを是とするならば、どちらを否定するのも誤りということになるのではないか。