不公平だなって思う

▼ある一人の人の人生を考えてみる。

1.彼は生を与えられる。これは明らかに彼にとって快楽ではないだろう。ひょっとすると苦痛かもしれない。当然選好もない。彼にとって、誕生は明らかな善とは言えない(功利主義的に考えて)。

2.彼は死ぬ。これはおそらく彼にとって苦痛であろう(ひょっとすると死は苦痛だとは言えないかもしれないが、まぁ多くの人にとっては死は恐怖の対象であり苦痛であろう)。できれば死にたくないという選好を持つ。とすると、彼にとって、死はおそらく悪である(功利主義的に考えて)。

3.誕生から死ぬまでの間、彼の人生は山あり谷ありであって、必ずしも善とは言い切れない(生まれてきて良かったという感覚は得てして「酸っぱいブドウ」の寓話のような自己正当化である)。

1と2と3より、彼の人生は悪である。彼は、彼自身の立場からは生まれない方が良かったのである。したがって、小作りという行為は不正である。


▼まぁ、これはちょっとしたジョークですが、子供を生み出すという行為は、いったいどういう倫理的評価を与えるべき行為なのでしょうかね・・・。私が思うには、死が必ずしも忌むべきものではない(SOLの拒否)のと同様に、生は必ずしも喜ぶべきものではないかもしれないです。

注記ですが、もう既に生まれた後である我々自身は、基本的には、より楽しく生きるように心がけた方が良いのであって、自殺することが良いわけではないことは誤解のなきようにお願いします。


▼別の話題。臓器提供がスーパーエロゲーションだと捉えられることも多い。わかりやすくいうと、臓器の処遇は自己決定権の範疇であって(リバタリアン的には臓器は自己所有権の対象であって)、臓器提供は義務ではない。しかしながら、臓器提供はレシピエントの命を救う人助けであり、善行である。義務ではない善行ということから、臓器提供はスーパーエロゲーションだと捉えられる。

しかしながら、臓器提供には条件がある。デッド・ドナー・ルール(DDR)である。ドナーは死者でなければならないという原則である。脳死者をドナーとしたい場合、2通りの正当化の方法がある。1.脳死=死とする。DDRを遵守するために、医学的基準(三徴候死)の方を変更する方法。2.脳死=生とする。医学的基準の方を維持したまま、DDRを変更(破棄)する方法。

ハーバード基準とか、日本の1997年の旧臓器移植法なんかは1の方法を採ってきた。一方で、違法性阻却論なんかは、2の立場を採る。私はどちらがベターかはわからない。

ただ、2も認められても良いのではないか。スーパーエロゲーションの話を思い出してみる。スーエロの典型的な例として、自己犠牲が挙げられる。手榴弾が近くで爆発する時、身をかぶせて被害を最小限に食い止める行為がスーエロである。つまり、自分の命を捨てて、他者の命を救う行為はスーエロであり、賞賛される。これは2と同じではないか。ドナーとして自分の命を捨てて、他者の命を救う行為もスーエロとして賞賛されても良いのではないだろうか。手榴弾の例と臓器提供の例で判断が異なるのは不公平ではないか。