強者と弱者とスーパーエロゲーション

あらゆる場面において、この世の中には不平等が伴う。経済的な不平等、才能の不平等、親、外見、健康etc。例えば、日本に生まれるか、第三世界に生まれるか。日本に生まれるにしても、医者の子か、フリーターの子か。志望大学に受かるか否か、サッカー選手になれるか否か。親に愛があるか否か。イケメンか否か。五体満足か否か。残念ながら、これはどうしようもない事実である。


日本における、富者と貧者を考えてみる(貧者もそれなりの生活を行えるとする)。

自分が富者だとしたら。まず、貧者に寄付をするべきだろうか。どうだろう。ただ、少なくとも、寄付は道徳的に良いとは言えそうだ。では、貧者に寄付をする義務があるだろうか。どうだろう。少なくとも、義務はないと思う。別の富者に対して、「寄付をした方が良いじゃんか」とは言えるけども、「寄付をしないと罰するぞコラ」とはどうしても言えないだろう。寄付の義務化は、富者の驕りであるように思われる。

では、自分が貧者だとしたら。寄付をもらえれば嬉しい。ただ、富者に寄付を強要できるだろうか。どうだろう。少なくとも、その強要は道徳的に良くないとは思う。寄付の強要は貧者の妬みであるように思われる。
寄付やそれに類する慈善や社会福祉(あるいは、経済に留まらず、臓器提供、献血など)は、やはりスーパーエロゲーションであって、義務ではない気がするんだよな。とすると、リバタリアニズム一択となる。

でも、不平等は道徳的に恣意的だというロールズ的な主張もわかるし、生命に危害が及ぶ程度の貧しさには上の議論は当てはまらないかもしれない。今後考えたい。