宣言

私はここに宣言します。


働きたくないでござる!



でも死にたくもないでござる。なぜ生まれてきてしまったのでござるか。これはまさにロングフルライフ訴訟。生まれてこない方が良かったつって訴訟起こせる時代になってるらしいですよ。すごい時代だよ。まったく。

某住宅メーカーのインターン行ったけど、やっぱめんどくせえなぁ。

本が届く。 Mellema

本が届いた。

Beyond the Call of Duty: Supererogation, Obligation, and Offence (Suny Series in Ethical Theory)

Beyond the Call of Duty: Supererogation, Obligation, and Offence (Suny Series in Ethical Theory)

1週間で届いた。早すなぁ。なんちゅうグロバール化や。アマゾン△。usliquidators△


スーパーエロゲーションsupererogationについて書いてあるはず。勉強しませう。

最近スーエロのいいところを考えるわけなんですが。ある行為(例えば、寄付)を行う。それはやっぱりイイもんだと思うし、讃えたいと思う。一方で、ある行為を行わない。それもやっぱりイイもんだと思うし、非難したくはない。この非対称な関係性を維持できる唯一の危ない橋がスーエロなわけです。

寄付を単なる善行として位置づけてしまえば、寄付をしないことは寄付をすることより倫理的に劣った行為となる。寄付をしない人間を劣位な場所に置くことは、どうしても耐えられない。それは倫理的ファシズムだろうと。

というわけで、以上の見立てが合っているかはわかりませんが、スーエロは大事だと思っとるですよ(`・ω・´)

尊厳っていったいなんなんだよ・・・

人間の尊厳、生命の尊厳、人体の尊厳。尊厳、尊厳って、いったい尊厳ってなんなんだよ・・・。

「尊厳がある」=「尊厳があってほしい」っていうことじゃないの?違うのか?だとしたら、なんで尊厳だけ自明視されるんだよ。おかしいじゃないかよ。いったい尊厳ってなにものだよ。

尊厳→カント→義務論→権利。権利まで落とし込めばだいぶ中身が伴ってくる気がするけども。

尊厳の押し売り?

人間は単に個として孤立的に存在するのではなく社会的存在であることからすれば、やはり生命処分については内在的制限があると思われ、「殺害されることを請求する権利」や「自殺の権利」としての自己決定権を承認することはできない。


甲斐克典(2004)「刑事法学の視点から――人体・ヒト組織・ヒト由来物質の利用と刑事規制をめぐる序論的考察」『北大法学論集』p.158

最近、人体の尊厳について調べている。そうすると、いろいろ考えることがある↓

一方に、生命や身体に尊厳を見出したい人々がいる。むしろ多数派だろう。私だっておおかたそれは認めたいと思う。しかし、他方に、そうでない人々がいるはずである。尊厳なんてない認めたつもりはないし、社会的存在であるつもりもない。彼らの考えを幼稚だと嘲笑し無視するとしたら、今度はその嘲笑する側が幼稚だという誹りを免れ得ないのではないだろうか。


話を変えよう。なぜ人を殺してはいけないのか、と問われたらどう答えるべきか。普通は、あなたも殺されたくないでしょう?だから殺してはいけないのよ、と答える。そこに見られるのは、契約説的な、相互性の倫理の考え方であり、その考え方で多くの人は納得する。それはある程度の直観が共有されているからである。

しかし、中には納得しない人もいる。私は殺されても構わないと考えている人である。彼に対して、多数派は何を言い得るだろうか。おそらく説得は不可能であろう。ここに至っては直観は無力である。直観主義は直観同士の対立を解消できない。かといって、彼の意見を封殺するのは傲慢さを感じる。

カント的に互いが互いを尊重し合うのを是とするならば、どちらを否定するのも誤りということになるのではないか。

読むべきリスト

やるべき事が済んだら倫理学を1からおさらいしよう。適当に今後アップデートしていくよ(^^)/


▼大昔
プラトン
アリストテレス 全部?特に『ニコマコス倫理学


▼昔
カント   全部。特に『実践理性批判
ミル    『自由論』 『功利主義論』
ベンサム
シジウィック
ロック   『統治二論』
ルソー 
ホッブズ  『リヴァイアサン
サルトル


▼最近
ロールズ  全部。
シンガー  全部。
ヘア    全部。『自由と理性』
ノージック 『アナーキー・国家・ユートピア

ゴティエ
ナーヴソン
サンデル
マッキンタイア
テイラー
ヨナス
ハーバーマス
セン
ハイエク
ハーサニー


オラワクワクしてきた(`・ω・´)

サンデル、混んでる

サンデルのハーバード白熱教室に行ってきた。

英語をペラペラと話すリア充ばっかだった。政治、哲学。単体でもリア充達が避けそうな分野である。そのコンポたる政治哲学。それなのに・・・(´・ω・`)。残されていた最後の楽園でさえリア充に占拠されてしまった。嗚呼、もう出て行かなくては。居心地良かったんだけどな。


(´・ω・`)イクナイ!
・日本の話が少なかった。テレビ版で見た話が多かった。→ネタ用意する時間がなかったのかな。戦争責任の話くらいかなぁ。日本用の話は。
・結構結論なしで次の話に移行した。→振り返ってみると何が身についたんだろう?まぁ、でも結論出してしまうと、意見の押しつけになるのが難しいのかなぁ。サンデルさんの意見をもっと聞きたかった。


(`・ω・´)イイ!
・要旨がよくわからない発言は結構ガン無視。逆に、特定の人にはしつこい位問いかける→この辺りの取捨選択が上手かったなぁ。
・問いかけが明確。「この意見についてどう思う?」とかじゃなくて、「この意見のこの部分について反対の人は?」みたいに問いかける。→質問のフレーミングって相当重要なんだね。これでだいぶ講義の方向性を操作できそう。

家族承諾による脳死臓器3例目

▼7月に改正臓器移植法が施行されてからもう3例目らしい(合計で89例目)。2ヶ月で3例。ペースが早い気がするが、どうだろうか。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100822-00000279-yom-soci

1997年に旧臓器移植法が施行されてから、改正臓器移植法が施行される2010年までに86例行われた計算になる。とすると、今までは概算で1年当たり86÷13=7例ペースだったわけか。一転、改正後はこのままのペースでいくと1年当たり18例ペースとなる。

やはり概算ではあれど、脳死臓器移植のペースは早まったとは言えそう。それをよしとするか否かは論者次第ではあるが、世間的にはよしとする人が多いのだろう。


▼ついでに、改正臓器移植法について思うことを。改正点としては、1.オプトアウト方式(本人が拒否の意思を示していない限り、臓器提供に同意したとみなす)への変更、2.年齢制限撤廃、3.親族優先提供の追加、が挙げられる*1

1と3は矛盾する方向性を持つ。1は、本人の自己決定を弱める方向性を持ち、死後の臓器を共有物とみなす節がある。一方、3は、本人の自己決定を強める方向性を持つ。死後の臓器の用途でさえも(部分的に)決定できる権限を認めた。その根拠は、やはり自分の身体は自分のものだという自己所有権があるだろう。

もともと身体というものは特殊なものである。人格の一部でありながら、物でもある世界中で唯一の存在である。とすると、ある程度の矛盾を内包するのは当然と言えなくもない。あるいは、はたまた、一貫した論理が必要なのか。

*1:脳死が一律に人の死になった」とよく謳われるが、提供拒否の意思を示している限りは法的脳死判定は行われない(「臓器の移植に関する法律」の運用に関する指針(ガイドライン))。法的脳死判定が行われない限りは脳死になることもないわけで。とすると、提供拒否者の死の基準は従来通り心停止ということになるはず。ならば、一律の死とは言えないということになる。