トゥーリー「嬰児は人格を持つか」


トゥーリー「嬰児は人格を持つか、加藤尚武・飯田亘之編(1988)『バイオエシックスの基礎』東海大学出版会、読む。元はTooley, M.,1972,"Abortion and infanticide," Philosophy & Public Affairs 2(1): 37-65. なお、翌年の同名の著書でだいぶ主張を変更したらしい。

▼人格と人間を明確に区別しないといかん。ワシは「○さんが人格である」を「○さんが生存する道徳的権利を持つ」と定義する。

▼2つの問題がある。A、価値(道徳的)問題:人格の条件とは? B、事実問題:人格の条件を備える対象は?
 A⇒”自己意識要件(持続的主体としての自己の概念)”である。自己意識に着目するのは権利には欲求が必要だからじゃ※1。例外はある(錯乱状態、睡眠状態、歪められた状態等々)のだが、そこは概念的可能性ということで勘弁してくれ※2。
 B⇒これはどちらかというと心理学的探求対象だが、少なくとも胎児は人格ではないじゃろうな。また、嬰児については、例えば生後1週間で良いのではないかの※3。


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※1 これはどうなんだろう。
※2 これも突き詰めないといけないよなぁ。自己所有権に関しても同じ事が言えるんだけど、例外は例外たる根拠を示せないといけない。それもアドホックでない形で。概念的可能性で足りるんだろうか。
※3 おおよそそれでいいかもしれんが、マイノリティは必ずいるものだからなぁ。

パーソン論のはじまりの論文。核心は、『生存権を持つ(=パーソンである)ならば、自己意識を持つ。対偶をとって、自己意識を持たないならば、生存権を持たない(=パーソンではない)。したがって、中絶や嬰児殺しは正当化できる』というところなのかな。私は共感できるが、一般的にはどうなんでしょう。

▼「パーソンを持つ存在に、生存権を付与しましょう」と言ってしまうとマズいらしい。江口聡「国内の生命倫理学における『パーソン論』の受容」参照(ネット上で見られる)。これによると国内の多くの生命倫理学者はパーソン論をやや誤解して受容してしまっているらしい。まぁ、読んでみると確かに納得する。・・・んだが、そうなると学問においていったい誰が信用できるんだろうか(´・ω・`)。